
プロフィール
誕生日:1965年9月25日
出身国:アメリカ
出身地:アーカンソー州ハンブルク
ポジション:スモールフォワード
ドラフト順位:1987年5位
ドラフトチーム:シアトル・スーパーソニックス(ブルズへトレード)
出身校:セントラルアーカンソー大学
身長:203cm 体重:103kg
NBAデビュー:1987年11月7日
2010年:殿堂入り
目次
スコッティ・ピッペン
スコッティー・ピッペンはとりあえず、何でも出来るいい選手でした。
オフェンスもディフェンスもNBAトップクラス。
ただですね、彼が入団したのはシカゴ・ブルズ。
何が言いたいかって、ピッペンはキャリアの大半をNBA史上最高と言われるジョーダンの2番手としてプレーせざるを得なかった訳です。
もちろん2番手では我慢出来ないと言う選手がいるのは周知の事実(カイリーやマグレディーなど)
ただ、ピッペンはその道を受け入れましたね。ファーストオプションになる事もなく、どちらかと言えばジョーダンのサポート役に徹していました。
ピッペンがジョーダンに不満を抱いていると言う情報はいっさい聞いた事が無いので、2人の関係性は本当によかったのではないかと思います。
実際試合見ててもめっちゃ仲良くしてましたしね。
カイリー・アービングがレブロン・ジェームズに抱いたような感情は、ピッペンには無かったんだろうと言うことは容易に想像できるわけですね。はい。
そんなピッペンですがよく「モアイ」に似てるって言われてました。
で、モアイと言えばデカイことで有名ですよね。
奇遇なのことに彼の母親は183センチ、父親は185センチと二人ともデカイです。
それと、ピッペンは12人兄弟なんですが、みんな背が高い。ちなみに兄弟の中で1番でかいのは末っ子のピッペン。
203cmあります。

あとあだ名はPIP。当時日本ではピップエレキバンとスコッティ・ピッペンは2大ピップと呼ばれていました(嘘)
それでは学生時代から見てみましょう。
セントラル・アーカンソー大学時代
高校時代はポイントガードとしてプレーしていたピッペンですが、有名大学からの誘いは一切ありませんでした。
ただ、何とか高校時代のヘッドコーチの紹介でセントラル・アーカンソー大学に入学します。
奨学生としてではなく、ウォークオンでマネージャーとして入学しました。
しかし!
入学当時のピッペンの身長は183cmでしたが、やがて203cmになりました。

一気に才能が開花したピッペンは、その後NBAのスカウト達の目に留まるように。

1987年NBAドラフト
ピッペンは1987年のNBAドラフトにて、1順目5位でシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)に指名されます。
その後、ブルズが指名したオルデン・ポリニスとのトレードでシカゴ・ブルズに加入しました。
オルデン・ポリニスはピッペンほどNBAでは活躍出来なかったので、このトレードはブルズにとっては大成功でした。逆にソニックスは損しましたね。

また当時ピッペンは無名すぎたためドラフト時にはあまり歓迎されていません。あのピッペンがブーイングされてたわけですよ。
「セントラルアーカンソー大学?ピッペンって誰?」
ってな感じに。
シカゴ・ブルズで覚醒
同じチームにはあの男がいましたね。NBA史上最高の選手「マイケル・ジョーダン」が。
ピッペンはジョーダンと一緒に練習することによって、潜在能力が引き出されました。おそらくジョーダンと一緒のチームじゃなかったらここまでの選手にはなれてなかったんじゃないかと私は思ってます。
また、ピッペンは1990年のダンクコンテストでフリースローラインからダンクを成功させました。身体能力が半端じゃないです。
全盛期のピッペンはまさしく荒ぶる猛牛のようでした!?

ピッペンとジョーダンの最強デュオ
この2人のコンビはですね、とりあえずやばかった。
何が凄いかって、2人揃って何でも出来るところ。オフェンス、ディフェンス共にNBAトップクラス。
今後もこのデュオを越えるデュオはなかなか出ないと思います。
どちらかと言うとジョーダンが目立ってましたが、ピッペンの活躍もかなりのものでしたね。

ピッペンはとにかくディフェンスが凄い
ピッペンは1991年のNBAファイナルでマジック・ジョンソンをマークし完全に封じ込めました。
「この時のピッペンのディフェンスは本当に凄かったです」
ピッペンの活躍によりシカゴ・ブルズはロサンゼルス・レイカーズを倒し初優勝しました。
ピッペンの活躍なくしてブルズの優勝は無かったですね。それ位ピッペンのディフェンスは冴えてました。
ディフェンシブチーム&スティール王
ピッペンは1992年から1999年まで8年連続オールディフェンシブファーストチームに選ばれています。1995年にはスティール王にも輝きました。
8年連続ディフェンシブファーストチームは普通に考えて凄すぎ!
私はディフェンスがいい選手が好きです。

ジョーダン引退時
1993年にジョーダンが引退した後はチームのエースとしてシカゴ・ブルズをカンファレンスセミファイナルまで導いています。
第7戦でニックスに敗れはしましたが、ここまで勝ち進めたのはピッペンのリーダーシップがあったから。
この時のピッペンはジョーダンに変わってチームリーダーとしての役割をしっかりこなしていましたね。
ジョーダンがいなくても十分活躍できることを証明しました!
やっぱりピッペンって凄い選手なんだと改めて思ったシーズンでした。

まじでやばいっす
1994年のオールスター
ジョーダンがいなくなって今度は俺が主役だぞって言う意気込みを感じました。
真っ赤な派手なバッシュ(エア・マエストロⅡ)を履いて登場した時はめちゃめちゃかっこよかったっす。
私も色違いですが当時一緒のバッシュ履いてました(笑)
そんなピッペンは1994年のNBAオールスターでMVPを獲得。
これからは自分がジョーダンに代わって、ブルズとNBAを引っ張って行くという決心が垣間見れました。
ピッペンはモアテンが似合う
ピッペンで印象的だったのが、エアモアアップテンポっすね。
通称「モアテン」
デザインしたのはウィルソン・スミス。発売は1996年。
でかでかとバッシュに「AIR」と入ってるデザインは発売当初物凄く斬新でした。

復刻版が発売されていますが、オリジナル発売当初と変わらず、未だに大人気のバッシュとなっております。
本当にお洒落。いろんなカラーが出てますけど、私は1番最初に発売された黒のやつが大好きです。
持ってないけどね。っていうか履いたことすらない。
なのに大好き。
アトランタオリンピックの時にはオリンピックカラーも発売されました。
ピッペンが問題児に
1994年のプレーオフ、ニューヨーク・ニックスとの対戦中にピッペンやっちゃいました。
イースタンカンファレンスセミファイナル第3戦の残り1.8秒。スコアは102対102の同点。ピッペンは自分がブルズのエースであると自負していました。
もちろん周りの選手もファンもそう思っていました。しかし、タイムアウト中にフィル・ジャクソンが最後のシュートを託したのはエースのピッペンではなく、なんとトニー・クーコッチ。
これに反発したピッペンはベンチからコートに出ませんでした。
ピッペンにもずっとブルズでやってきたプライドがあったでしょうからね。
しかし、皮肉にもクーコッチが放ったシュートはブザーと同時にゴールに吸い込まれます。
もし入ってなかったらピッペンに打たせなかったフィル・ジャクソンが批判されてたかもしれないけど、入っちゃいましたからね。
もちろん、この時のピッペンの行動は物議をかもしました。

正直私はフィル・ジャクソンすげーって思ったし、ブルズが勝ったんでそれでよかったですけど。
ドリームチームに2度選出
スコッティ・ピッペンは1992年のバルセロナオリンピックと、1996年のアトランタオリンピックに出場しました。もちろん2度とも金メダルを獲得しています。

2度の三連覇
シカゴ・ブルズ黄金期には2度の三連覇(1991年~1993年、1996年~1998年)を達成します。ピッペンの存在なくしてこの偉大な記録は絶対に達成できなかったです。
それ位ピッペンはシカゴ・ブルズにとって大きな存在でした。
トレードに出されそうになった時、ジョーダンが引き止めた位ですからね。
あと、ピッペンはブルズ時代サラリーが低かったですが、そんな面でもブルズに多大なる貢献をしたわけです。
もしピッペンがもっと給料よこせとかって言い出してたら多分ブルズやばかったですね。
なぜこの選手がピッペンより給料もらってんの?見たいなのは多々ありましたから(私の記憶が正しければ、ピッペンよりもクーコッチのほうが貰ってた)
ヒューストンロケッツ時代
ブルズで数々の成績を残したピッペンでしたけど、1998年ロイ・ロジャースと2000年の2順目指名権と交換で、ヒューストン・ロケッツに移籍。
ブルズ時代より給料いっぱいもらえるようになりました。

そしてなんといっても、当時のロケッツにはアキーム・オラジュワン、チャールズ・バークレーがいました。
私はこの時思いましたね、「絶対強えー」と。
しかし、蓋を開けてみると、なんかバークレーとかみ合ってなかったっすね。バークレーとも仲が悪くなり、ロケッツ時代のピッペンはあんまりいいイメージが無かったです。
そんなピッペンはロケッツからトレードされたがっていました。
結果、1999年の10月2日にポートランド・トレイルブレイザーズへトレードされます。交換相手は、ステイシー・オーグモン、ケルビン・ケイト、エド・グレイ、カルロス・ロジャース、ブライアン・ショウ、ウォルト・ウィリアムズでした。
ブレイザーズ時代
ブレイザーズ時代のピッペンはいい感じに活躍してました。
っていうか、当時のブレイザーズはかなりメンバーが揃ってましたね。なのでピッペンが1人で背負い込む必要がありませんでした。
スティーブ・スミスやラシード・ウォレス、サボニス(父)、デーモン・スタウダマイヤー、ブライアン・グラント、ボンジ・ウェルズ、デトレフ・シュレンプなど。監督はマイク・ダンリービー。

ブレイザーズ時代のピッペンのハイライトは2000年のウエスタンカンファレンスファイナルでしょうね。恩師フィル・ジャクソン率いるレイカーズと対戦しました。この対戦は物凄く記憶に残ってます。
第7戦までもつれたシリーズは第4クォーターの時点で15点もブレイザーズがリード。
私は当時レイカーズが大嫌いだったので、しめしめと思ってました。しかし、そこからシャックとコービーがありえん位の大活躍。
試合は84対89でレイカーズが勝っちゃいました。

苦い思い出です。
古巣シカゴ・ブルズに復帰
2003-04年シーズン、ピッペンはシカゴ・ブルズに帰ってきました。
やっぱりピッペンはブルズのユニフォームが1番!
しかし、このシーズン彼は怪我の為23試合しかプレーすることが出来きませんでした。またルーキーイヤーからずっとプレーオフに出場し続けていましたが、このシーズンはプレーオフに出場する事が出来ませんでした。
そしてついに2004年の10月ピッペンは引退することを表明します。

2005年にピッペンが付けていた背番号33番はシカゴ・ブルズの永久欠番になりました。
マイケル・ジョーダンの右隣に燦然とバナーが輝いております!
わたしの中では80~90年代に活躍していたスーパースター達は30番台をつけていたイメージが強いので、33番がなんか物凄くかっこよく見えます。
とにもかくにも、ピッペンはブルズ時代が1番輝いていたし、凄かった。
ピッペンのブルズでの記録(2019年現在)
ピッペンはブルズでかなりの部門でトップ5に入ってます。
試合数(2位)、試合時間(2位)、フィールドゴール(2位)
フィールドゴール試投数(2位)、2ポイントフィールドゴール(2位)
2ポイント試投数(3位)、スリーポイントフィールドゴール(3位)
3ポイント試投数(2位)、フィールドゴールミス(3位)
フリースロー成功数(4位)、フリースロー試投数(2位)、オフェンスリバウンド(3位)
ディフェンスリバウンド(2位)、トータルリバウンド(3位)、アシスト(2位)、スティール(2位)
ブロック(4位)、ターンオーバー(2位)、パーソナルファウル(1位)、得点(2位)
1試合平均出場時間(9位)、1試合平均アシスト(6位)、スティール(3位)
などなど。
パーソナルファウル1位はディフェンスを頑張っていた証拠でしょう。

ブルズ入団後NBA人気を背負ってきたピッペン。いつもジョーダンの2番手だったけど、存在感抜群で愛すべき選手でした。
それではまた。